ムハンマドちゃん

お寿司がすきです

無理ポ・ヨ

 

もうなんだか死にたくて死にたくて堪らなくなってしまいました。

私は正式に『躁鬱病』だとかの病名を貰っているわけではありません。入院した頃からずっと、躁鬱病境界性人格障害、気分循環症、などと疑われながら通院してきましたが、正確にはまだわかりません。一年以上経っても医者も正確にはわからないし、私も知りません。長いスパンで観察しないとプロでも分からないそうです。精神病の診断はそれほど難しいものだそうです。

境界性人格障害は診断基準を見て、例えば二極思考とか、自分でバッチリ満たしていると自覚する節がありますが、正直こんなのちょっと捻くれた性格なら誰でも当てはまるだろうと思ってしまいます。躁鬱病に関しては、殆ど自覚がありません。そりゃあ生きていてウキウキする事もあれば鬱になることもあるでしょう。でも躁鬱病の人のエピソードを調べても、自分はこんなに極端にではない気がします。というか、私は躁と鬱の波もいうよりもどちらかといえば鬱寄りの毎日を過ごしていて、そういうわけで私は私を至極真っ当、心身ともに健康な普通の人間だと思って生きています。(精神疾患を認めたくなくて、私はそんな症状じゃないと思い込みたいだけなのかもしれません)

強いて言うなら、私は『たまに死にたくて死にたくて堪らなくなってしまう病』だと思います。そのフェーズに入ると部屋にいてリビングから聞こえてくる親の笑い声、犬の鳴き声、全てが鬱陶しくて、邪魔で、動悸が止まらなくて、涙も止まらなくて、イヤホンをして、ひたすら楽な死に方を考えます。或いは自分が死んだ後のことを想像します。私が死んだことを知り、私を傷つけた人が罪悪感と地獄の果てに落ちるのを考えると気持ちがいいです。私の死を少しでも悲しんで泣いている人を想像するのも気持ちがいいです。もっと泣け、もっと苦しめ、全てに後悔しろと思います。至極気持ちの悪い趣味です。

そんな事を考えながら、他人に返すLINEは普段通り、或いはいつもより明るく振る舞います。LINEを返信したりSNSを更新する私は、本物の私ではありません。誰かに見せる自分まで死にたくなってしまうと、もう自分の全てが駄目になって、地に落ち、動悸は更に激しくなることを知っているからです。

今日も嫌なことがありました。もう今、死にたいです。今にでも、自分の体に岩を巻き付けて湯船に沈むか、タオルを結んでドアノブで首を吊るか、12階の部屋の窓から飛び降りるか、どうにかしてもう居なくなってしまいたいです。でもどうせできません。できっこありません、私はビビリのヘタレなのですから。死ぬのは難しいです。首を吊る真似をしても苦しいし、部屋の窓から真下を見下ろしても寒気がするし、自分で死ぬのなんて正気じゃ殆ど不可能だと思います。自分の手で自らの命を絶った人は素晴らしいです。尊敬します。どうやって死んだか、有り金全部叩いても教えてほしいのに、教えてくれません。もう死んで骨になってしまっているのですから。

死ぬのが怖いので、こうしてダラダラ生きています。今日、『人魚の眠る家』という映画を観ました。事故で脳死状態になった娘をどうにかして生きながらえさせようと必死になる母親の話です。人はどうしてこうも死を否定し、生を与えようとするのでしょうか。死というのはそんなにもいけないことなのでしょうか。人間なんていつか死ぬのに。どうして社会は自らを死に追いやることをこんなにも防ごうとするのでしょうか。全て残された人間のエゴのように思えます。残されたら悲しいから、困るから、だから死なないでって馬鹿みたいに唱えられても、死んだ側からすれば知ったことではありません。誰も死んだ後の世界のことなど知らないくせに。ああもう無理、生きていたくない、死んでしまおうと覚悟を決めた人間が、自分の死に付随する責任を負ってからならば、安楽死させてもよいという制度があったらいいのに、といつも思います。その反面、現実の医療は少しでも希死念慮がある人間を精神病棟にブチ込み、薬漬けにします。死にたい人間を無理矢理生かす意味がわかりません。私はそうやってこれからも嫌なことがある度にそのような事を考えてダラダラ生きていくのだと思います。そしてしばらくすれば忘れて普通に戻ります。どうせその繰り返しです。そんな未来を考えるだけで吐き気がします。以上です