ムハンマドちゃん

お寿司がすきです

散歩と親の期待

 

今日は久しぶりに、お化粧をして家に出ました。

こんな世の中になってから夜にすっぴんマスクで出かけることしかなかったのだけど、なんとびっくり、お化粧するとこんなに気分が上がるんだね

お化粧すると、なんか自分が女の子になれるというか、女の子の自覚が芽生えるっていうか、魔法みたいな、普通のJKがプリキュアに変身する最下位互換のようなものです、そんな割とルンルンな気持ちで新宿をお散歩しました。ルミネや伊勢丹は勿論やっていないのだけれど、この街に住んで約十年、新宿の景色を見るとなんだか心がホッとします。

そんなお散歩ルートだけれど、ポエマーのように当たり前のことを当たり前に言うと、今の一瞬は今しかなかったわけなので、そんな今日の新宿ももう二度と見ることはないなとしっかりと目に焼き付けてきました。

 

 

まあそんな事も考えながらボーッとお散歩していて、旅行会社のポスターを見かけて、ああ今年はコロナで家族旅行も行けないだろうなーって、気づけば親の事を考えていました。

 

 

私は一人娘で、小さな頃から大事に大事に不自由なく育てられてきました。さっきポスターを見て思ったように、気づいた頃から毎年夏には家族で海外旅行をするのが行事のようになっていました。それと同時に、私の親は教育熱心でもありました。平仮名や漢字も周りの子よりも早く書けたり、幼稚園でも何かと褒められたり、親の私への期待は多分そうやって高まり、英会話やピアノなどの習い事もさせてもらいました。

そして小学校に入り、いきなり学習塾に通い始めました。当時の私は勉強が嫌とか、塾が嫌とかそういう概念自体がなく、楽しんで通っていました。それが鬼の受験コースの始まりだと知らずに。そのお陰で、小学校ではいわゆる「できる子」だったのだと思います。学校のテストも百点以外は許されませんでした。習っていたピアノも、教室の中の同じ学年の中では一番上手だったようでした。多分、私は何でも"それなりに"できる器用な子供だったのでしょう。

そうして六年間塾に通い続け、中学受験をし、第一志望には受かりませんでしたがそこそこの中高一貫校に合格し、六年間特に問題なく通いました。中二でエレキギターを始めた時には、初めが肝心だからとヤマハのギター教室にも通わせてくれました。そのおかげもあり、まあすぐにそれなりにギターも弾けるようになり、親も文化祭の演奏を観て満足しているようでしたし、高二の時に都大会に出て賞なんかもらった時には親もとても喜んでいました。

大学受験も、第一志望には受かりませんでしたがそこそこの大学に合格し、私はなんで毎回毎回第一志望に落ちるんだと悲しみましたが、親はとても喜んでくれたようでした。

 

ここまでが、私の「できる子」としての人生でした。親が期待する、期待通りの私でした。

 

大学に入った私は、燃え尽き症候群なのか何なのか、今まで頑張ってきたこと全部、勉強も、ギターも、できなくなってしまいました。自分でもどうしてこんなに急に何もできなくなってしまったのかわかりません。結果留年しました、当然です。父親とは大学の事務的な話をしたりしますが、母親とは大学の話なんてできません。留年のりの字も会話の中で出てきたことはありません。どんなに落胆されているか怖くて、触れられません。

挙げ句の果てには入院騒ぎ、もう親に合わせる顔などありませんでした。今も、親は私の通院代を出してくれるだけで、その内容には全く触れません。毎晩父親にその日の薬をもらうのも無言で、気まずいです。きっと今の私は親が想定していた私ではないのでしょう。今の私はどこからどう見ても「できる子」ではありません、むしろ世間的には人生ドロップアウトの落ちこぼれ組でしょう。

申し訳ないと思います、親に。死ぬほど親不孝だと思います。大金を注ぎ込んで育てた娘が、こんなのになってしまったのですから。一年と少し前の入院中、思い立って文学部への編入試験を受けるために勉強しようと思い、参考書も買ってもらい、退院後の自習室の契約までしてもらいました。決して安い値段ではありませんでしたが、親は躊躇わずそのお金を出してくれました。ところが編入試験へのやる気はある日突然消え、借りた自習室に通うこともほとんどありませんでした。親から投資してもらった金をドブに捨ててしまうような最低な娘です。もう、罪悪感なんて言葉では収まりません。

それなのに、そんな最低な娘なのに、母親は買い物でスーパーへ行くと私が好きなお菓子を買ってきてくれます。私が喜ぶと思って、少しでも元気になると思ってくれているのだとしたら、私はそれが有難くて有難くて、そんなことを考えてやるような大した娘でもないのに、今の私は親の期待に何一つ応えられなくて、喜ばせることもできず、散歩しながら、そう、散歩していました、散歩しながら泣きそうになってしまいました。そうして、コンビニで親が食べたいと言っていたクリームブリュレを見つけたので買って帰りました。今の私にはそれくらいしかできません。ごめんね、

 

最近観た映画

 

こうも毎日家に居なきゃならないと、結局やはりやる事がなくなり、ハリボーのグミを片手にネトフリやアマプラで映画やドラマを観耽ってしまいます。

 

最近観た中で、印象的だった作品の話を三つほど挙げようと思います。

 

 

まず、『白夜行』、2006年に放送された、東野圭吾の非常に有名な原作のドラマ版です。主演は綾瀬はるか山田孝之

恥ずかしながら原作は未読なのですが、少し前に2010年に公開された映画版を観ました。主演は堀北真希高良健吾

幼い男女が、共に犯した罪を大人になるまでずっと共有し合って、そしてお互いに狂っていく、というようなお話です。私は映画版を最初に観たので、堀北真希演じる雪穂の"冷たい悪女"感を期待してドラマ版を観たのですが、綾瀬はるか演じる雪穂は全く違う、"苦しみに葛藤する悲しい女"のように見えました。ドラマ版の二人は、何年か前に放送されていたドラマ、『Nのために』のようにお互いを想い合い助け合っているような関係でした。伝わるでしょうか。言わば泣ける系です。これはこれでまあ良かった(山田孝之の不器用でがむしゃらな演技が良くて、私が助けてあげたくてオンオン泣いた)のですが、でもやっぱり個人的には、続編とも言われる『幻夜』の深田恭子の悪女っぷりが好きだったので少し物足りないような気もしました。まあでも面白かったです。暇があったら映画版とドラマ版を見比べて観るのも良いかもしれません。

 

 

次に、『キュア〜禁断の隔離病棟〜』という2016年の洋画です。以前私が「ミッドサマー面白かった!!!」と騒いでいたので、「ミッドサマー好きなら好きそう」と友人に薦められ、ホイホイと観ました。

結論から述べると、非常に気持ちが悪かったです。ミッドサマーが精神的な気持ち悪さなら、この作品は物理的な気持ち悪さ。そこまでグロテスクなシーンはないけれど、スプラッター映画的な気持ち悪さを感じました。

舞台はニューヨーク、主人公はバリバリのビジネスマンで、上司からスイスの療養所へ行ったきり帰ってこない社長を連れ戻してくるよう言い渡されます。訪れるとそこは誰もが幸せそうで、映像的にも美しい巨大な病院でした。しかし主人公は徐々に不気味な事に巻き込まれ・・・・ここまではミッドサマーと似ています。異なるのは、"主人公がこの不気味な組織に抗ったか"という点です。この作品では、主人公はこの病院の真実を知るために足掻きます。しかし、ミッドサマーは足掻く事もできないまま次々と人が死んで行きます。一見私も似てる!と思ったこの両映画ですが、途中からの展開は別物で夢中で最後まで観てしまいました。比較してしまうとエンディング的にはミッドサマーの方向性の方が私は好きでした。が、主人公が最終的に辿り着いた真実には思わずゾッとしましたし、非常に映画的で、伏線も張られていて飽きずに観れて面白かったです。強いて言うなら『〜禁断の隔離病棟〜』とかいう俗っぽいサブタイトルを何とかして欲しいです。

 

 

最後に、2011年公開、園子温監督の『恋の罪』という映画です。実はこの映画、観るのは三回目(正確にはだいぶ前に園子温作品を観あさっていたとき、その最初の頃に一度観て衝撃が忘れられず、最近になって二回観ました)で、個人的好きな映画ランキングで一、二を争うほどかなり好きな映画です。

しかしながら、コレサワの曲で「私の好きな映画は♪園子温恋の罪♪」と歌われているので、好き!というのがサブカル女子アピールみたいでなんとなく嫌なのですが、私はサブカル女子ではないので下北沢や高円寺で古着屋巡りとかが趣味なわけではありません。ともかく、何を言われようと、私はこの映画がとても好きです。

渋谷のラブホテル街でバラバラ死体が発見されるところから物語は始まります。主な登場人物は三人の女性。家庭円満で仕事熱心な女刑事が実は不倫していたり、退屈な日々を送る主婦がひょんなことからアダルトビデオ撮影の仕事をして女としての悦びに目覚めたり、そして売春に没頭したり、なんかもう私も女なのに女が怖くなりそうな出来事ばかりです。そして、作品全体として、狂っています。真面目な面持ちで鑑賞すると終始(エェ…)と置いてきぼりにされるので、自分も映画の中に入って頭がおかしくなった気持ちで鑑賞するのが良いと思います。

個人的に好きなシーンは、観れば分かると思うのですが、いずみが美津子の実家でお茶をするシーンです。あのシーンだけは本当に何度見ても面白くて、アホほどリピートしています。そして、何度観ても美津子の夜の美しさに恍惚としてしまいます。

この作品は実際の事件を元にして作られたそうで、その事件も随分とショッキングなので、映画を観た後その事件について調べるとマジだったのか、ウウッ…となり二度楽しめました。

かなり有名な映画だとは思うのですが、なかなか観たことのある友人が見つからず寂しいです。かと言ってぜひ観て!観て!とも言いづらい作品なので、もし観たことあるよって人がいたらそっと教えてください。

 

最近観た作品を三つ、挙げました。

 

三つ繋がりで好きな映画ベスト3とかふと考えてみました。

悩みましたが、私のチョイスは1位が『恋の罪』、2位が『リップヴァンウィンクルの花嫁』、3位が『愚行録』です。私は基本的に物騒な映画が好きです。3位の愚行録はどうしてそんなに有名じゃないんだ?と思うほど個人的には面白く、サスペンス映画の中では群を抜いています。(なので4位以下はほとんどなんかいっぱい死ぬ!的な映画ですし、リップヴァンウィンクルの花嫁みたいな切なくて美しい系映画は私的にはちょっと異色です、でも好きです)私は特段映画に詳しいとかそういう文化的な人間ではないのですが、人並みに映画を観るのは好きなので、お薦めの映画とかあったら、教えてほしいし、感想を共有してほしいです。ハリボーのグミも飽きてきたので、ついでに映画に合うおつまみも教えてほしいです。

 

 

 

無理ポ・ヨ

 

もうなんだか死にたくて死にたくて堪らなくなってしまいました。

私は正式に『躁鬱病』だとかの病名を貰っているわけではありません。入院した頃からずっと、躁鬱病境界性人格障害、気分循環症、などと疑われながら通院してきましたが、正確にはまだわかりません。一年以上経っても医者も正確にはわからないし、私も知りません。長いスパンで観察しないとプロでも分からないそうです。精神病の診断はそれほど難しいものだそうです。

境界性人格障害は診断基準を見て、例えば二極思考とか、自分でバッチリ満たしていると自覚する節がありますが、正直こんなのちょっと捻くれた性格なら誰でも当てはまるだろうと思ってしまいます。躁鬱病に関しては、殆ど自覚がありません。そりゃあ生きていてウキウキする事もあれば鬱になることもあるでしょう。でも躁鬱病の人のエピソードを調べても、自分はこんなに極端にではない気がします。というか、私は躁と鬱の波もいうよりもどちらかといえば鬱寄りの毎日を過ごしていて、そういうわけで私は私を至極真っ当、心身ともに健康な普通の人間だと思って生きています。(精神疾患を認めたくなくて、私はそんな症状じゃないと思い込みたいだけなのかもしれません)

強いて言うなら、私は『たまに死にたくて死にたくて堪らなくなってしまう病』だと思います。そのフェーズに入ると部屋にいてリビングから聞こえてくる親の笑い声、犬の鳴き声、全てが鬱陶しくて、邪魔で、動悸が止まらなくて、涙も止まらなくて、イヤホンをして、ひたすら楽な死に方を考えます。或いは自分が死んだ後のことを想像します。私が死んだことを知り、私を傷つけた人が罪悪感と地獄の果てに落ちるのを考えると気持ちがいいです。私の死を少しでも悲しんで泣いている人を想像するのも気持ちがいいです。もっと泣け、もっと苦しめ、全てに後悔しろと思います。至極気持ちの悪い趣味です。

そんな事を考えながら、他人に返すLINEは普段通り、或いはいつもより明るく振る舞います。LINEを返信したりSNSを更新する私は、本物の私ではありません。誰かに見せる自分まで死にたくなってしまうと、もう自分の全てが駄目になって、地に落ち、動悸は更に激しくなることを知っているからです。

今日も嫌なことがありました。もう今、死にたいです。今にでも、自分の体に岩を巻き付けて湯船に沈むか、タオルを結んでドアノブで首を吊るか、12階の部屋の窓から飛び降りるか、どうにかしてもう居なくなってしまいたいです。でもどうせできません。できっこありません、私はビビリのヘタレなのですから。死ぬのは難しいです。首を吊る真似をしても苦しいし、部屋の窓から真下を見下ろしても寒気がするし、自分で死ぬのなんて正気じゃ殆ど不可能だと思います。自分の手で自らの命を絶った人は素晴らしいです。尊敬します。どうやって死んだか、有り金全部叩いても教えてほしいのに、教えてくれません。もう死んで骨になってしまっているのですから。

死ぬのが怖いので、こうしてダラダラ生きています。今日、『人魚の眠る家』という映画を観ました。事故で脳死状態になった娘をどうにかして生きながらえさせようと必死になる母親の話です。人はどうしてこうも死を否定し、生を与えようとするのでしょうか。死というのはそんなにもいけないことなのでしょうか。人間なんていつか死ぬのに。どうして社会は自らを死に追いやることをこんなにも防ごうとするのでしょうか。全て残された人間のエゴのように思えます。残されたら悲しいから、困るから、だから死なないでって馬鹿みたいに唱えられても、死んだ側からすれば知ったことではありません。誰も死んだ後の世界のことなど知らないくせに。ああもう無理、生きていたくない、死んでしまおうと覚悟を決めた人間が、自分の死に付随する責任を負ってからならば、安楽死させてもよいという制度があったらいいのに、といつも思います。その反面、現実の医療は少しでも希死念慮がある人間を精神病棟にブチ込み、薬漬けにします。死にたい人間を無理矢理生かす意味がわかりません。私はそうやってこれからも嫌なことがある度にそのような事を考えてダラダラ生きていくのだと思います。そしてしばらくすれば忘れて普通に戻ります。どうせその繰り返しです。そんな未来を考えるだけで吐き気がします。以上です

 

🥺

 

不特定多数に見られる不安となんかもう全部飽きて疲れちゃったので今日は歌を唄います

 

 

ya~~~~~~ya~~ya~~~~~~ya~~ya~ya~ya~~~~

 

ya~~~~~~ya~~ya~~~~~~ya~~ya~ya~ya~~~~

(突然のラップ)

 

塩辛 闇から 美味いマシュマロ

青汁 重んじる コロナの中国人

私の服を置き引きした中国人はコロナ?

コロナ コロナ コロナメロンパンマロンクリームシュワシュワパンチフレッシュプリキュア

 

(歌唱)

 

飽〜きた飽きた♪KUNの人狼ジャッジメント

寝て起きて寝て起きて寝て気づけば夕飯♪

紙タバコ吸えないストレスをヨーグルトに

ぶつけては消え♪いや消えはしないよ

メビウスオプションパープルスリムの5ミリって呪文♪

全部カードだから実質無料♪

白桃カルピスサワーが飲みたい寄越せ、

寄越せ、寄越せ、寄越せ、酒を♪

ミュウミュウの香水、透明なバッグ、チューリップのお花、

ぜんぶぜんぶがかわいいね♪

桜なんかよりチューリップの方がかわいいだろ色盲か?

うちの犬は耳がでかくてシナモン♪

一方的インポで韻が踏めるモン♪

 

モンモン ウゥッ

 

 

 

 

歯磨きしてたら冷やしたオクラとサラダチキンが踊りだした!!!!??!?!!???

 

 

 

 

 

私とヴィジュアル系

 

 

君と夏フェスみたいなタイトルをつけてしまいましたが、怒らないでください。ストレスフルな事が身に降りかかると、その反動でいつもはしないような事をしてしまいます。心なしか無駄にテンションも高くなります。ストレスへの防御反応でしょうか。そんな事はどうでも良くて、ネトフリもSNSも飽きた私は、Apple Musicをいじり始めました。そして好きな曲ばかりを集めたプレイリストを作っていたら、いつの間にかヴィジュアル系バンドの曲で埋まっていました。こうなったらいっそ、好きなヴィジュアル系バンドのリストにしてしまおうと、自己満足でそんなプレイリストを作成するなどしていました。

 

ヴィジュアル系バンドなど、馴染みがない人には本当に馴染みがない異文化かと思います。私にとってもそうでした。中学生になって軽音部に入るまでは。そりゃそうか、小学生がそんなの聴かんか。

 

私の学校は中高一貫の女子校で、必ずどれかの部活に所属しなければなりません。ピカピカの中学一年生、当時自分のスーパーインドアなポテンシャルなど知らなかった私はダンス部や阿波踊り部、あるいは剣道部なんてカッコいいナ〜などと考えていました。が、そんな中でどんなミラクルな経緯があったのか、なぜか軽音楽部に入ってしまいました。今考えると奇跡的です。軽音楽部がどんな事をするのかも知りませんでした。ベースという楽器も知らず、"クラブ紹介"の発表で見たPA卓で音量をいじる人のことを「ベース」と言うのだと本気で思っていました。そのレベルで軽音楽部が何をするのかも知らず入ってしまったのです。

 

流石に入部してからああ、こういう事をするんだ、バンドってこんな感じなんだ、ベースってこんな楽器なんだ、ウワッ何これ重ッ、などと、徐々に軽音楽部を理解し馴染んでいきました。中一の時は「ピアノをやっていた」という理由だけでキーボードを担当していました。自分もバンドの一員になり、また高校生の先輩の演奏を聴いて、かっこいい、これはなんて曲だろうなどと思って自分で調べて聴くようにもなりました。そんな中で出会ったのが「Acid Black Cherry」、いわゆるABC、そしてその前身ともいえる、丁度一年前頃に解散した「Janne Da Arc」というアーティストです。初めてヴィジュアル系バンドというものに触れ、衝撃を受けました。

中二になってからギターを始め、ギターが楽しくてより一層部活に多く関わるようになり、同時に色々なバンドに触れる事も増えました。憧れのジャンヌやABCの曲をコピーすることもありました。

そうして中二の冬、ついに、部活の友人と一緒に初めてABCのライブへ出向いたのです。今考えると中二でABCのライブへ行くなんてクソほどませたクソクソクソガキですが、バンドのライブ自体が初めてだった私は中二の幼い精神ながらいたく感動し、そうして高校生までヴィジュアル系への陶酔は加速していきました。ABCやジャンヌだけでなく、他のヴィジュアル系バンドの曲も聴くようになりました。高校生になってオリジナル曲を作ることもありましたが、今聴くとモロにヴィジュアル系の影響を受けています。メロディも歌詞もギターのフレーズも。恥ずかしいです。

 

私にとって、ヴィジュアル系は青春そのものです。ガチ恋して列に並ぶようなハードなバンギャではありませんでしたが、お化粧をして歌ったり楽器を演奏する男性の特異な美しさとその音楽に完全に嵌っていました。

登下校中は誕生日に買ってもらったウォークマンヴィジュアル系を必ず聴いていましたし、ツタヤで借りたCDを父親にウォークマンに入れてもらってはコレクションが増えたようでウキウキしていました。友人とのカラオケではオイオイその歳ではちょっと色っぽ過ぎるんじゃないか?みたいな歌詞の曲を歌ったり、本当に、側から見たらただのマセガキでした。学校から帰ってきてはリビングのテレビでヴィジュアル系バンドのDVD(しかも無駄に色っぽい歌詞)を熱心に観る娘を親はどう思っていたのでしょう。また女子校という環境もヴィジュアル系への陶酔を加速させた様に思います。共学ではそんな男ウケバチバチ悪そうなバンギャなど流行らないのではないでしょうか(知らんけど)。ライブに行く日には慣れない化粧を濃くしてみたり、ミニスカートを履いたり(アリーナ規模のライブだったのにめちゃくちゃキモい)、そして席が良かった日には格好良すぎて、美しすぎて、泣いた事もありました。もう、周りからどう思われようが、本当に好きだった、むしろヴィジュアル系しか私にはなかったのだと思います。

 

今や私が熱心に追っていたABCも活動休止し、ジャンヌも解散し、そして私自身も高二、三辺りからアイドル・オタクになったので、大学生になってから一度もバンドのライブ自体に行ったことがありません。

 

それでも未だに聴いていて脳汁ビシャビシャ、ゾクゾクするのは今も変わらずヴィジュアル系の曲です。厚い重低音と激しいギターサウンド、それと対比されるような美しくて妖艶な歌声と繊細な歌詞。

中高という精神的成長期に専らヴィジュアル系に傾倒し、流行りの邦ロックなどあまり聴かなかったためにこんなに精神が歪んだ人間になってしまったのかもしれません。それでも私はヴィジュアル系に傾倒した事を後悔しません。私にとって、ヴィジュアル系は永遠の憧れであり、永遠の青春です。

 

 

 

 

ハプニングバーの懐古話

 

連日のコロナ騒ぎ、不要不急の外出自粛ムードにより、私の引きこもりも正当化されてしまいました。しかしながらいざ正当化されてしまうと今度はなんだか外に出たくなってきてしまい、私は天邪鬼気質なんだなと思いました。そんなクソほどどうでもいい事を考えてしまうほど暇なのです。YouTubeもネトフリも飽きたし、どうぶつの森がやりたいのにSwitchは買えないし、暇で仕方がないのです。暇だとこうしてクソほどどうでもいい事ばかり考えてしまうので、クソほどどうでもいいハプニングバーの体験談でもしようかと思います。

 

 

数ヶ月前、友人二人とハプニングバーへ行きました。ハプニングバーというのは文字通り、その場に訪れた男女の間で何かしらのハプニングが起きちゃうかも!?というお店です。詳細はGoogle先生に訊いてください。友人とはもう一年ほど前から「ハプニングバーってのがあるらしいよ、行ってみたくない?」「他人のセックスを生で見てみたくない?」「わかる」などと話しており、念願叶ってのハプニングバーデビューとなりました。気持ち悪い趣味の女子大生達です。

 

いざ入店すると、まずはスタッフさんに建物内の案内をされます。一階がフロント、更衣室、シャワールームとちょっとした談話室(このシャワールームの時点で全てを察した)、地下一階はバーのような雰囲気で、男女がお酒を片手に交流するような場所でした。そして二階がいわゆるプレイルームで、マットが敷かれており、そして堂々と構える本格的なSM器具がその異様さを引き立てていました。プレイルームはカーテンで区切られているのみで中の声は丸聞こえ、そしてプレイルームの壁はマジックミラーになっており、中の様子を見学する際はマジックミラーの裏側から静かに見学するようにと注意されました。もうこの時点で、というかスタッフさんがそれを当然のように淡々と説明している時点で、あまりに非現実的な空間すぎて、ビビリな私の心臓は既にバックバクでした。

 

案内が終わると地下のバースペースに通されました。私達は女三人で一緒にいるつもりだったのですが、スタッフさんにバラバラにされてしまいました。まあ男性客への為の配慮もあるのでしょうから仕方がありません。(入場料や入会費は女性は全部で二千円ですが、男性は合わせて二万円以上したと思います)そうして、いざ周りを見てみるとほとんど全員がヤバいコスプレをしているのです。パンイチにはっぴ姿のイカツいお兄さん、ほぼ胸丸出しの年齢不詳の女性、童貞殺しニットを着たおじさん、私達はそんなヤバい人たちの輪にたった一人で混ざっていきました。ほとんどのお客さんがコスプレをしているものですから、していない私と友人らの方が浮いてしまい、結局私達も全員コスプレをすることになりました。(友人はチャイナドレスにミニスカポリス、私はセーラー服をチョイスしたので露出が多いとはいえギリギリの尺度を保っていました)

 

男女比は8:2程度だったと思います。当然ながら女一人に男数名がたかるような状態です。想像してみてください。ヤバいコスプレをしたお兄さんやおじさんが、これまたコスプレをした女子大生にたかっているのです。変態めいたコスプレをした状態でナンパする男性などこの世のどこにいるのでしょうか。さらにヤバいのが、フロアの中央で全裸のおじさんが踊っているのです。もう何もかも、おじさんの全てが丸見えです。後から聞いた話では、そのおじさんは女の子に「キモ〜い!」と言われることで興奮する趣味、かつ、バイアグラ的なものを飲んでいる常連のヤバい人だったらしいのですが、しかしながら誰もそんなおじさんの事を気にしていません。みんなそれがさも当然の事かのようにスルーしています。ダンシング全裸おじさんをよそに、高い入場料を払った男性達はワンチャンを狙って女の子にたかるのです。全員コスプレをして。その場にいる誰もが変態なんていう言葉じゃ収まりません。今考えると異常空間を通り越して、あれは本当に実在する場所だったのだろうかとすら思います。

 

個人的感想としては、話がつまらないおじさん達に「二階行かない?見にだけでも行ってみない?」などとセクハラ混じりに付き纏われている時は(金貰えないパパ活かよ…)と若干退屈な気分になっていたのですが、夜が更けていくにつれて人も増え、二階も賑わい始めると、まあかなり今までにもこの先にもないようなエキサイティングな経験ができたかなと思います。一緒に行った友人も初対面のおじさんに変なコスプレをさせたり、プロレスラーと仲良くなって一緒に他人のセックスを見学したり、各々楽しんでいたのではないでしょうか。私も他人の情事を間近で見て聴くのは初めてでした。(当然)

 

そんなこんなで四、五時間ハプニングバーに滞在したのですが、お店のあるホテル街を抜け、見慣れた街並みに戻ると、より一層さっきまでのは何だったんだという気持ちになりました。なんだか変な夢を見ていたような気分でした。

軽い気持ちで連絡先を交換した男性がいたのですが、先日「またハプニングバー一緒に行かない?」と誘われて、迷わず断りました。これが仮にパパ活でお給料が出るとしても、行くか迷うレベルです。それなりに楽しい時間ではありましたが、非現実的すぎて、異世界すぎて、気軽に行く勇気は出ません。東京の究極的なアンダーグラウンドを見てしまった気分です。

 

多分この限りない異常空間具合は実際に行ってみないと分からない気がするので、最後にハプニングバーに興味がある人に向けて、気をつけてほしいことでも書いて終わることにしましょう。

まず、男性に向けて、とにかく初回は入会金と入場料が高いです。そして二万以上を払って実際にハプニングに至るためには、私のような分際で申し上げるのも失礼ですが、女子ウケするそれなりの清潔感とそれなりのトーク力が必要かと思われます。そのくらい競争率が高いのです。話す相手も見つからずつまらなそうに男同士で酒を飲んでいる卓もありました。スタッフさんも女の子を守るために監視しているので、そういう事をしたいだけなら風俗やそこらへ行った方が金銭的にも精神的にもコスパが良いと思います。

次に、女性に向けては、うーん、特に言うことはないというかハプバーに行きたい!という女の子なんてロクな思想をもっていなさそうなので言うことはないように思いますが、強いて言うなら、嫌な事は嫌とはっきり言った方が良いです。その気がないなら最初から「二階に行く気はありません!」と言っておいた方が変な期待も抱かせず楽だと思います。そのくらいです。スタッフさんも、初めて?大丈夫?などと気遣ってくれるので、そんなに恐れるような場所ではありません。実質朝まで飲み放題二千円ぽっきりなので、興味本位で一度行くのは悪くないと思います。

 

 

・・・と、長々とマジで死ぬほど下品で不躾な話をしてしまいました。でも、もしかしたら今も、あの場所では非現実的なあんなことやこんなことが実際に起こっているのかもしれません。今日もまたフロアの中央で全裸のおじさんが踊り狂っているのかもしれません。そう考えると少し怖い気もしますが、そんな非日常もあのおじさんにとっては日常なんだなって思うと、あの空間も肯定できる気がします。でも私は余程親しい友人と一緒じゃないと、そして余程またあの空間を味わいたくなる理由がないと、もうそうそう行く勇気が出ません。

 

 

魔法少女アイドル

 

私はアイドルが好きだ。女の子のアイドル。モー娘や乃木坂もいいけれど、私が一番好きなのはライブハウスでライブをするような、いわゆる地下アイドル。

 

どうしてこんなにアイドルが好きなのかな。自分でも何度も考えたことがあるけれど、よくわからない。自分がアイドルになりたいわけじゃないし、実は女の子が好きとかそういうのでもない。ただひたすら、アイドルとして頑張っている女の子と、アイドルになりたくて必死に頑張っている女の子が好きなのだ。

 

私がアイドルの曲を初めて好きになったのは中学三年生くらいの頃、きっかけも覚えていないほど何でもないきっかけで「BiS」というアイドルに出会った。そして、そのアイドルらしからぬバンドサウンドに衝撃を受けた。AKB48しかアイドルを知らなかった私にとってのアイドルのイメージ、いわゆる一般的なアイドルフェイスではなかったのだけれど、それでも曲とパフォーマンスがかっこよくて、どんどん引き込まれてしまった。

BiSが解散するとその後継的な立ち位置で、今や知名度うなぎ上りのBiSHが結成され、かと思えば全く新しいメンバーでBiSが再結成され、耳が忙しいなあと思いつつ、アイドルの曲と一緒に大学受験し、大学に入学した。(受験本番の直前までBiSHの『OTNK』を聴いて気合を入れていたので、感慨深い一曲ではあるが、OTNKで気合を入れるJKってそもそもなんだか気持ち悪い)

そうして、それからさらに色々なアイドルグループに出会い、色々な女の子に出会った。対バンでお目当てではなかったはずのアイドルグループのライブにも感動してファンになってしまったり、とにかく私はチョロい。

 

そんな話はどうでも良い。私が一番好きな女の子、いわゆる「推し」は、現在「CARRY LOOSE」というグループで活動しているパン・ルナリーフィという子。(日本人?と訊かれるが日本人です。以下、いつものようにパンちゃんと呼びます)彼女は良い意味でわたしをアイドル・オタクにさせてくれた。一目惚れだった。彼女を見たときから、もう顔も歌声もドストライクで、こんな子この世に存在するんだ、尊い、間近で見てみたい、お話ししてみたい、、、という今まで経験したことのない胸のトゥンクが抑えきれなくなってしまった。そして当時オタク友達など居なかった私はパンちゃんに会うべく、たった一人で、システムもよくわからないまま初めてチェキ会というものへ出向き、結局緊張で何も話せないままチェキを撮った。今となっては良い思い出だが、それからも足繁くパンちゃんのチェキ会、そして他のグループの好きなメンバーのチェキ会へも行くようになった。

「"好き"という感情を持ったままの行動は記憶に残りにくい」と何かで見たことがあるけれど、本当にその通りで、今まで何十回とパンちゃんとチェキを撮ったはずなのに記憶が全くない。他の子と撮ったチェキは「あ〜この時はこんな話をしたな〜」とかなんとなく覚えているのだけど、パンちゃんとの思い出だけ皆無なのだ。何十回も通っているのにどうせ毎回「アッ今日も可愛いね!アッ…すごい好き…」みたいな事しか言えない。キモいし、悲しい。

 

何かしらのオタクである人には理解してもらえると思うのだけど、推しっていうのはそれほど自分にとって凄いもので、好きという感情とも違うし大好きだけどそれでも足りないし、大好き好き好き可愛い好き好き大好き尊い可愛い前世での徳の積みようが凄い、いやこれでもまだ足りないし、とにかく言葉で表せないほどしゅきしゅきしゅきしゅきしゅきって感じなのだ。

推しの私服のブランドや使っている化粧品はほぼ確実に真似して買ってしまう。自分が幾ら着飾ったところでパンちゃんにはなれないのだけど。

 

そんな神のような存在であるパンちゃんであるが、彼女も三年前までは一般人の、普通の女の子だったのだ。

勿論パンちゃんはお披露目の時から可愛かった。しかし、その可愛さは贔屓目なしに年々進化していて、歌唱力もグングン上がり、今や事務所内でもかなりの人気を誇っている。

アイドルって魔法で、普通の女の子が、アイドルになって人前で歌って踊っているうちに、最初の頃とは別人のように可愛く、そしてかっこよくなるのだ。勿論それは彼女達の努力によるものなのだけれど、日を増すごとに努力だけでは掴み取れないような何か、まさに魔法のようなものが彼女達にかかっているように見えて仕方ないのだ。私はその魔法がかかったのが見えたとき、泣いてしまう。だからデビューの時から出会った女の子達、全員に対して何度も何度もこれでもかという程、今まで泣いてしまった。

 

アイドルになりたい女の子が揃って「自分を変えたい」って言うのも、その魔法のようなものがあるっていうのにみんな気付いているからなのかな、とも思う。

 

元はみんな普通の女の子だ。私なんか何の目標もなく、将来の話をするのも恥ずかしく、普通の女の子でいいやって妥協して適当に生きている。それなのに、私と同年代、あるいは何個も年下の女の子が、ただひたすらアイドルになりたくて必死にがむしゃらにもがいて頑張っている姿が、そしてその思いが将来の話を避けがちな私の胸にグサッと刺さって、また泣けてしまう。

 

 

そうして、私達は普通の女の子がアイドルになってステージの上で歌って踊る姿に熱狂する。かっこよくてドキッとしたり、感動して泣いたりする。逆に言えば、私達は彼女達のアイドルとしての一面しか知らない。考えてみれば、本名も知らないし、年齢も、どの寿司ネタが好きなのかも、本当はどんな顔をしてアイドルらしいSNSを更新しているのかも知らない。赤の他人だから当然だ。けれども、我々オタクはアイドルの皮を被った赤の他人の写真を見て癒されたり、アイドルの皮を被った女の子と数秒話してチェキを撮るためだけにCDを何十枚も買ったりするのだ。私達は普通の女の子の、アイドルとしての側面だけしか見ていない、というか見ることができない。全部知りたい?でもよく考えてみて。知らない方が幸せなのかもしれない。アイドルの魔法に私達もつられてかかったまま、夢を見ていた方が、幸せなのかもしれないよ。そう考えると、少し切ない気もするナ